修理

先日手に入れたKate Harrisデザインのスプーンですが、そのうち2本が1908年、3本が1911年に作られたものだと言うことはすでに書きました。ですがその後、そのスプーンをしげしげと眺めていて気づいたことがあります。


















写真の3本はどれも1911年製のものです。よく見ると皿の付け根の部分が変色しているんですね。我が家では黄色っぽい色の蛍光灯を使っているので夜だとわからなかったんですが、昼間、自然光で眺めていたら付け根の部分で銀の色目が違っていることがはっきりとわかったんです。


紛れもない。これは修理した跡です。


そこで、1908年製の2本とよく見比べてみました。そちらにはこういう跡がない。それだけではありません。皿の形が微妙に違うし、皿の厚みも違う。1908年のものが薄手なのに比べ、1911年のものはかなり厚い。普通ならここでがっかりするところなんでしょうが、私は逆に感心してしまったんですね。いえ、むしろ嬉しくなったといった方が正しいかもしれない。


以前の持ち主は、おそらくこのスプーンを大変気に入っていて、毎日のように使っていたんだと思うんです。だから、磨いているうちに当然皿部分が薄くなってくる。で、そのうち1本、また1本と皿の付け根から折れていく。それでも捨てる気にはなれない。そこで、このスプーンを作った工房に修理に出したのではないか。


修理する職人も、持ち主の期待に応えます。多少形は違うものの、また長く使ってもらえることを祈って厚手の皿をつける。それも、見た目やデザインにできる限り影響が出ないように。表から見たときにできるだけ修理の跡がわからないように、柄から皿へと緩いカーブを描くところでうまくつなぎ合わせる。また、そこでつなぎ合わせれば、スプーンの周囲を巡る細いアウトラインをつぶさなくてすむ。私が一目で修理跡に気づかなかったのは、そういった職人の心遣いがあったからだと思うんです。たかがスプーン。されどスプーン。


日本もかつては同じだったはずです。雑器だった古伊万里の「直し」はその証拠。漆器だって漆がはげれば塗り直して使っていました。愛着のあるものは、大切に、できるだけ長く使っていたわけです。


確かに使い捨ては楽です。割れたり壊れたりしたら買い換えればすむ。けれど、本当にそれでいいのか、常々疑問を感じていたんですね。愛着があった品物を修理してもらおうと持って行ったときに、「もう部品がないから直せません」とか「買い換えた方が安上がりですよ」とか、そういう言葉が当たり前のように店員さんの口から出てくることに対して、もっともかなと思う一方で、心のどこかに確かな抵抗感を感じていました。このスプーンたちは、私の抵抗感が間違っていなかったことを証明してくれたような気がするんです。持ち主の愛着と、職人の心意気が本当に嬉しかった。


私の住んでいる町は本当に小さな町です。けれど、壊れてしまった置き時計を歯車を手作りしてくれてまで修理してくれる時計屋さんがいます。受け取りに行くと嬉しそうに出迎えてくれます。そうして、本当に名残惜しそうに時計を手渡してくれます。これって、大いに自慢していいことだと思うんですよね。