ラリックのジュエリー

このクラバット・ピンを手に入れてから、もうすぐ2年が経とうとしています。


正直に申し上げますと、思い切って購入したものの、しばらくの間は「もし贋作だったら・・・」という不安にとりつかれていました。けれども、このクラバット・ピンと向き合っているうちに、いつしか贋作だなどとは微塵も思わなくなっていました。


購入当時の興奮状態の中ではわからなかったのですが、一ヶ月ほど経ったある日、クラバット・ピンのコレクションを眺めていてふと「なんて美しいのだろう」と思ったんです。決して派手なわけではない。むしろ地味と言っていいくらいの品にもかかわらず、すぅっと目に入ってくる。「気がつくとそこに凛と佇んでいる」とでも言ったらいいでしょうか。クラバット・ピンですから紛れもなくジュエリーなんですが、ジュエリーという枠の中では捉えきれない空気を纏っているんです。


ジュエリーを越えた芸術性。ラリックのジュエリーは、ジュエリーであると同時にアートでもあると、私は思っています。このクラバット・ピンと向き合う時の「感覚」は、美術館で好きな絵画や彫刻と出会って、時間を忘れてその作品と向き合う時の「感覚」と似ています。アートを鑑賞する楽しさは、時間を忘れて作品と向き合うことにあると思うのですが、ラリックのジュエリーにはそれがある。


ここ1、2年、ラリックの「贋作」とおぼしき品々を目にする機会が増えたように思います。オークションならともかく、美術館や展覧会においても「贋作」が「真作」として出品されているのを見かけたことがあります。ラリックの女性像は、ふっくらと丸みを帯びた柔らかい女性の顔が主流の時代にあって、「細面であごが引き締まっている」のが特徴なんですが、どう見てもラリックの女性とは違うんです。


もちろん、私は専門家でも研究者でもありませんから、「真作」と主張されれば「はあ、そうですか」と言うしかありません。けれども、それらの作品を目にした際に、芸術作品と向き合ったときの「感覚」が全く呼び覚まされなかったことは事実です。


中には、ラリックの作品と呼ぶにはあまりにもお粗末なできの品も混じっていました。品がない、抜きは甘い、エナメルの施し方は雑。とにかく「作り手の意識が低すぎる」んですね。ラリックのジュエリーには「ジュエリーを越えた芸術性」が感じられるはずですし、大量生産されたメダルよりできが悪いなどということはありえません。

裏面の写真
左下にサイン

ラリックのジュエリーに関しては、専門家がいないというのが現状です。ですから、こういった「贋作」とおぼしき作品が紛れ込んでしまうのも仕方のないことなのかもしれません。これがオークションやお店で見かけたというのであれば、買わなければいいことです。しかし「贋作」を展示してしまった側の「意識の低さ」には、大きな問題があると言わざるを得ません。


アートを鑑賞する楽しさは、作品と向き合うことにあります。真贋を見極める時に最も大切なことも、やはり作品と向き合うことです。それも、真剣に。「専門家でないから」というのは言い訳になりません。作品と向き合うときに必要なのは、知識ではない。「物を見る眼」であり、「物から何かを感じ取る感覚」なんです。ラリックのようにサインを簡単に偽造できるような作家の場合はなおさらです。知識は判断の一助に過ぎません。できの良い贋作ならともかく、あまりにもお粗末な贋作を展示してしまった責任は、非常に重いのではないでしょうか。実際、私の周囲にも、贋作を見てラリックに興味を失った方が複数いらっしゃいます。


偉そうなことを言ってしまいましたが、私自身もまだまだ発展途上の身です。このクラバット・ピンは、私に「物と向き合う」ことの楽しさと大切さを改めて示してくれたような気がしています。