柱時計

子供の頃、両親の仕事の都合で一時期叔母夫婦の家に預けられていたことがあります。


長じてからも夏休みや冬休み、春休みといった長いお休みの時は、その期間をまるまる叔母の家で過ごしていました。叔母夫婦の家も息子が一人だけでしたから、叔母夫婦にとって私は次男坊のようなもので、私も叔母夫婦のことを「かあやん」「とうちゃん」と呼んでいました。ちなみに両親は「お父さん」「お母さん」。私には両親が二組いたようなものです。


叔母は私の母の姉です。叔母が5人兄弟の一番上、母が末っ子。間の3人はいずれも男で二人きりの姉妹。仲の良さは格別でした。同じ姉妹でありながら気性は正反対。細かいことに気がつき何事にもマメな母に対して、叔母は至っておおらか。怒り方も正反対で、母が怒ると氷のように冷たい空気を発し出すのに対し、叔母は烈火のごとく怒ります。で、どちらが怖いかと言えば、叔母の方。大正生まれの総領だけあって、肝の据わり方が違います(笑)。



迫力満点の叔母に対して、10歳年上の叔父は「好々爺」を絵に描いたような人でした。・・・顔は、我が母曰く「鬼瓦のごとし」(笑)。でも、人柄は至って穏やか。お盆やお正月に親戚一同が叔母の家に集まると、決まって子供たちが「誰が叔父の膝の上に座るか」でケンカを始めたものです。叔母夫婦は自営業を営んでいましたが、叔父の下で働いていた人たちは、叔父の人柄に惹かれて最後の最後まで叔父のもとで働いていました。使っていた人たち全ての最期を看取り、叔母を看取った後、最年長の叔父がこの世を去ったというのも、面倒見の良い叔父らしい感じがしています。


両親には申し訳ないんですが、私が最も尊敬しているのが、この叔母夫婦です。もっとも、両親が一番尊敬しているのも叔母夫婦ですから、私が叔母夫婦を尊敬しているとわかっても「やっぱりね」で終わってしまうかもしれません。


叔母夫婦が亡くなるまで、叔母の家には柱時計がかかっていました。SEIKO社のネジ巻き式のものです。時間になると「ボーン、ボーン・・・」と心地よい鐘の音が響きます。週に一度、踏み台に登って時計のネジを巻くのは叔父の仕事でした。小柄な叔母では時計に手が届かないからです。で、踏み台が倒れないように押さえているのが叔母の役目でした。


新年を告げるのもこの時計でした。大晦日の夜、深閑とした部屋の中で年越し蕎麦を食べながら新年を待ちます。ストーブにかかった薬缶から立ち上る湯気。湯気で曇った窓からでもはっきりと見える大粒の雪。時計の鐘の音が響き渡って年が明けると、新年の挨拶を交わす。これが私にとってのお正月の風景でした。


その頃の記憶があるからでしょう、骨董市やアンティークフェアで柱時計を見ると、ついつい近寄って見入ってしまいます。銀器を通じて西洋アンティークに興味を持ち始めるのとほぼ同時期に、柱時計だけは購入していました。右上の写真のJunhans社の品がそれです。鐘の音が、私の記憶の中にある鐘の音のイメージにぴったりだったのが決め手になりました。


叔母の家の柱時計はSEIKO社のものですから、実際の鐘の音はもっと大きくて金属質な感じでした。これに対してJunhans社の時計の鐘は優しくて柔らかな響きをしています。年を経て、記憶にもオブラートがかかったようです(笑)。Junhans社に限らず、ドイツ製の時計の鐘の音は優しく柔らかな音をしていて、何かに集中していると鐘が鳴ったことに気づかない、などということもしばしばあります。


どんな時計であれ、私は「ネジを巻く」という行為が好きです。もちろん「気持ちの切り替え」という意味合いもあります。腕時計ならば仕事モードへの切り替え、柱時計や置時計ならば一週間の切り替え。でも、それ以上に、私にとっては「ネジを巻く」という行為が「叔父の仕事」であったことに大きな意味があるような気がしています。柱時計が好きになったのも、その鐘の音を心地よいと思うようになったのも、叔母夫婦の家に柱時計があったから。ネジを巻くたびに、ネジを巻く叔父の姿と、踏み台を押さえて叔父を見守っている叔母の姿とがはっきりと脳裏に浮かびます。


   



マルケトリーで水仙を描いた
オランダ製の柱時計

ドイツのJunhans社の
柱時計

フランス製の柱時計
典型的なアールデコのデザイン