必然

アンティークを集めていると、時折思いがけない出来事に遭遇することがあります。今回は、その中でも一番驚き、一番心を動かされたエピソードをご紹介します。


写真のカフリンクスとスタッドのセットがオークションで同じ方から落札したものだと言うことはすでにご紹介したとおりです。出品していたのは南米の業者さんでした。最初にスタッドを落札したとき、その業者さんから「これはある女性からの依頼で引き取った品物だが、実は彼女はこれとおそろいのカフリンクスも持っている。カフリンクスはどうしても手放したくないと言うことで、今回はスタッドだけだが、カフリンクスも大変見事で美しい品だ」とメールで知らされました。


その頃、私はすでにお気に入りのカフリンクスをいくつか持っていて、カフリンクスよりは市場に出回ることの少ないスタッドを探していました。ですから、スタッドが手に入れば良かったわけで、おそろいのカフリンクスがあると知らされても「へぇ、そうなんだ」くらいにしか思っていませんでした。


ところが、数ヶ月後、この業者さんから「前に話したおそろいのカフリンクスを出品するから、よかったらビットしてみないか」と連絡がありました。そのころはこれといった品物に出会っていなかったこともあり、試しにと思って入札してみたのですが、あれよあれよという間に値段は跳ね上がり、スタッドの3倍近くにまでなってしまいました。最後の最後まで迷った末、なんとなく「たまには無理してみようか」と思って入札に踏み切り、運良く落札することができました。

                         

品物が届き、業者さんに無事に届いたことを連絡した後、思いがけない出来事は起こりました。前の持ち主だった女性が、業者さんを通じてメールをくださったんです。


このカフリンクスとスタッドのセットは、彼女のおじいさんがフランスで買い求めた品で、お父さんの形見の品だということでした。事情があって家の品物を整理しなければならなくなったとき、せめてカフリンクスだけは手元に置いておきたいと思って、最初はスタッドだけを手放した。けれども、結局はカフリンクスを手放さなければならない状況になってしまった。その時、彼女は大変な後悔に襲われたのだそうです。こんなことになるなら、最初からカフリンクスとスタッド両方を手放すのだった。そうすればセットでオークションにかけることもできたのに。祖父が、父が、あれだけ大切にしていたカフリンクスとスタッド。それが私のせいで離ればなれになってしまう。カフスを手放した後、気落ちしてしまった彼女は、しばらくの間眠れぬ日々を過ごしたそうです。


ところが、落札したのが、以前スタッドを落札した私だった。業者さんから同じ人が落札したと知らされたとき、彼女は心の底から安堵し、ぜひ落札した私にお礼が言いたいと申し出た。折悪しく品物が発送された後だったので、業者さんのメールに彼女のメールを添えることになったということでした。メールには丁重なお礼の言葉が、繰り返し綴られていました。カフリンクスを手放さなければならなくなった今、カフリンクスとスタッドを引き離すことは、彼女にとっておじいさんやお父さんとの思い出を引き裂くに等しい行為だった。カフリンクスはもうないけれど、あなたのおかげで祖父や父のことを穏やかな気持ちで思い出すことができる。言葉の端々から、彼女の気持ちが痛いほど伝わってきました。どれだけこのカフリンクスとスタッドを大切にしていたか。どれだけおじいさんやお父さんとの思い出を大切にしてきたか。


アンティークを好まない方は「誰が使ったかわからないものだから気味が悪い」と考えていらっしゃるようです。アンティーク好きの私にとっては、逆にそこが心惹かれる点になっています。生き物である以上、人はいつかは死ぬ。けれど、その人が使っていた「もの」は残る。そうして人から人へと受け継がれ、今、ここに「ある」。アンティークが帯びている「霊性」−「命」と言ってもいいかもしれません−の源は、人の手を経て、その人たちの思いを受け止めてきたところにあると思うんです。


フランスから南米、そして地球の反対側である日本へ。100年かけて地球を半周してきたカフリンクスとスタッド。落札した私は、なんとなく入札に踏み切っただけですが、もしかしたら、離ればなれになるのをいやがって、カフリンクスとスタッドが呼び合ったのかもしれません。


スタッドとカフリンクスを
送られてきたときのケースに入れて
スタッドの方はオリジナルケース
本当に大事にされていたらしく
ケースにもキズ一つない状態